總持院東條閣の歴史

当寺の創建とあゆみ

開山

大雄祖廣大和尚(たいゆうそこう・だいおしょう)(現住持にて廿四世)

開基

田尻甲斐守忠行(たじりかいのかみただゆき)(總持院殿吾大忠行大居士(そうじいんでんごだいちゅうぎょう・だいこじ))
田尻弾正忠政(たじりだんじょうただまさ)(總光院殿雲窓招関大居士(そうこういんでんうんそうしょうかん・だいこじ))

大雄祖廣大和尚開創の年月は、定かでありませんが、開基家に伝わる文書によれば、天正元年(西暦1573年)には、当寺が存在していたことが伺えます。 当時は、戦国時代と言われ、播磨国(現在兵庫県)は、中小の豪族が割拠していました。当地は、東條谷念佛村と言われ、ここに居館を構える田尻氏により、開基、建立されたのが当寺です。時の当主甲斐守忠行公、長子忠政(ただまさ)公が、曹洞宗に帰依、現在の兵庫県川辺郡猪名川町の『景福寺(けいふくじ)』九世傅心祖印大和尚を招聘しましたが、高齢の為、その御弟子である大雄祖廣大和尚が入寺、寺が開かれました。
寺の名称は、現在の兵庫県美方郡新温泉町にある『佛頂山 楞嚴寺』(但馬国守護山名氏が開基)に因み、つけられたと言われます。その後、甲斐守忠行公の法名『總持院殿』に因み、『總持院楞嚴寺』と称するようになりました。
天正8年(西暦1580年)の三木合戦(みきかっせん)(羽柴秀吉を大将する織田軍と別所氏を盟主とする東播磨地域の諸豪族との戦争)で、別所氏に与力した田尻氏は、一旦領主でなくなりましたが、甲斐守忠行公長子忠政公(法名『總光院殿』)は、秀吉より念佛村を知行所として与えられ、次子忠貫公は、但馬へ移住しました。やがて江戸時代寛永年間、家光将軍の代に、忠政公が継嗣なく逝去、当時の掟で、田尻氏は改易、所領は、幕府領となり、寺は、幕府の管轄下におかけれることになりました。明治になるまで、この体制が続く訳ですが、寺は幕府の出張所のような役割も果たしていたようです。当地は、交通の要所として、当時大変重要視されていたようで、幕府としては、是非確保しておきたかったのでしょう。明治、大正、昭和そして平成、その間、様々な出来事がありましたが、歴代の住持、檀信徒の尽力により、護持され、今日に至っております。

鎮守様(ちんじゅさま)について 『東條稲荷縁起(とうじょういなり・えんぎ)』

東條稲荷大明神御影当寺をお護り頂いている鎮守様は、東條稲荷大明神(とうじょういなりだいみょうじん)、金比羅大権現(こんぴらだいごんげん)、北辰妙見大菩薩(ほくしんみょうけんだいぼさつ)、弁財尊天(べざいそんてん)(鎮守堂『東條閣(とうじょうかく)』で奉祀)、冨士丸稲荷大明神、豊川稲荷真天(山中の奥の院で奉祀)、秋葉大権現(あきばだいごんげん)(山上と本堂で奉祀)です。
開基田尻甲斐守が、当寺建立にあたり、当寺を守護頂く鎮守様として、東條稲荷大明神、金比羅大権現、北辰妙見大菩薩を奉祀されたのが始まりで、他は、後に様々な御縁により、奉祀するようになったものです。
特に、冨士丸稲荷大明神(ふじまるいなりだいみょうじん)は、当山の守護神で、多年埋もれておられたのを、近年に発見、奉祀するようになりました。
鎮守様を総称して『東條稲荷』と呼ばれておりますが、創建以来代々大切にお祀りしています。明治の日清、日露戦争の頃は、『弾除けの御利益がある』ということで、方々からお参りがあったそうです。近年、当寺廿三世室『智月芳貞大禪尼(ちげつほうてい・だいぜんに)』(昭和61年逝去)が、稲荷大明神の霊験を授かり、稲荷大明神の『霊台(れいだい)』とて、お参りの方に大明神の『おことば』を伝えました。現在は、現山主(住持)が継承し、お勤めしております。春、秋の大祭、毎月の例祭の他、様々な御祈祷を随時お勤めしています。